2021年 9月 3日 夢、志望、志について
こんにちは、東進担任助手3年の釜田です。
今日は志望校や志望の決め方についてちょっと書いてみましたので、読んでいただければ幸いでございます。
まず、僕自身は現在東京大学に通っており、そのためか東大や難関国公立大学を志望する高2生を中心に担当しています。そのため、担当だとそもそも志望校をすでに決めている生徒が多く、正直このような問題について生徒に話す機会はそれほど多くありませんでしたが、志系のイベントに少し関わった経験も踏まえて、今日は簡単に「志望校」や「志望」の関係について整理したいと思います。
まず、私自身はとても受動的な方法で志望校を決めました。高1のとき学校で受けた模試で「第一志望には東大と書いてください」とアナウンスがあったのです。中堅進学校にはあるあるの恐怖体験ですが、実の所あれのおかげで東大が志望の射程に入りうるのだという認識を得ました。そして、とりあえずなんだかエリートっぽいといういやらしい理由でその時は文科一類(法学部系)と書き、次第に東大行くなら好きなことをと思って、昔から興味のあった文学・哲学の道に進みやすい文科三類(文学系)に志望を変えました。よく調べてみると東大には「進学振り分け」という制度があって、入った時の科類でだいたいの方向性だけ決まるけれど、どの学部学科にはいるかは1年生で色々な授業を受けてから決めさせてくれると知り、それも安心材料となりました。最終的に高校三年生からは東大一本と決めるようになったのです。
このように、結局最初の志望を決めたきっかけは外的なもので、次第にそれを正当化する形で志望の形成が行われていったというのが実情で、個人的には多くの人にこのプロセスが当てはまると思います。正直に言って、高校生の狭い生活領域の中から主体的に志望を見出すのはかなり困難なことです。
ある人は、しかし、将来の職業的な目標さえあれば大学受験の志望校は容易に定まると言うことでしょう。否定はしません。ですが、それは専門職か、よほど大学で専門的な教育課程がある場合についてしか言えないことなのです。例えば法曹志望の人や医師、看護師を目指している人、あるいはパイロット、大学教員、高校・中学校の教師、お坊さんなんかはそうですね。多くの場合これらの人々にとって最も効率の良いキャリアは大学で専門教育を受けて、資格試験に合格し、研修を得て職業を得ることです。従って必然的に志望校も定まっていくことでしょう。ですが、労働に関する国の統計などが示すように、多くの大学生は必ずしも専攻する学問とは関係ないか、少なくとも、資格などの排他性がある専門職ではない仕事に就くことになります。(例えば、多少経済について知っていればそうでない学生より証券会社で重宝されることはあるかもしれませんが、経済学部以外の学生を門前払いするというわけではありません。)例えば法務省が行った調査によれば、法学部の学生の中で法曹志望は13%程度しかいないのです。必ずしも法学部の学生が法律家になるのでもなく、農学部の学生が農家になるわけでもない、神学部の学生が神に……というのは冗談ですが、多くの一般企業に就職することを考えている高校生は、就職と大学での勉強を切り離して考えた方が良いと思います。
結局、そうすると今の多くの皆さんにとって最も重要なのは何を大学で学びたいか、ということです。「大学生は人生の夏休み」などと言われますが、「学校」を意味する英語のschoolやドイツ語のschule、フランス語のécoleの語源はどれもschole(スコレー)というギリシャ語で、「余暇」を意味します。世界史に出てくる中世スコラ哲学のスコラも同じ語源です。といっても大学生は暇で遊んでばかりいるからとかそういうことではありません。例えば古代の哲学者アリストテレスはスコレーという概念をパイディア(休息)やアナパウシス(気晴らし)と分け、日々の労働から解放され、精神の修養にあてる重要な時間として説明しています。大学生の4年間はまだそれほど働かなくても良い余暇の間に、自己の陶冶に努めることのできる貴重な時間です。しかしそこで何ができるか、という可能性の大枠については今のうちから投企しなくてはならないのです。
では、学びたいことをどのように今から決めれば良いのか。経験的なことを申し上げると、中高校生に「何に興味があるの?」と聞いたときに「特に何も……」と答えられてしまう蓋然性は結構高いです。そして、彼らは恥ずかしがっているわけでもなく、そもそも何かに興味がある、あるいは〇〇を学びたいという欲望を構築することができていません。「君は何がしたいの?」という質問に困ってしまう、そういう人は読者の中にもいくらかいるのではないかと思います。そしてそれは、哲学的なことを言えば、「何かを学びたくなるには、どうすればよいのか」を経験的に理解していないのが原因です。
何かを学びたい、どこそこで学びたいというのは、一見すると成熟した主体性の強い現れに見えるのですが、厳密には間違っています。生まれた時からある志望の主体であるような、すなわちある志望を備えている人はいません。ですから、何か外部的な契機を経て引き受けた動機から自分をある種の客体として駆動させることが必要です。ここで「自分を」と「自分」を目的語にするこの再帰代名詞的な発想がポイントだと思います。例えば、僕の場合、「第一志望は東大と書いてください」というあの暴力的なアナウンスが点火装置となって、「無理かもしれないけど東大に行けたらいいだろうな」という自分の主体性とも言えないような他力本願的でさえある弱い願望から、文学系への興味とも合成し、勉強を完徹するような「私は東大文科三類を志望している」という強い志望へと自らを駆動することができたわけです。
皆さんの場合にも、きっとこのような体験がどこかにあるでしょう。たまたま聞いたニュース、読んだ本、憧れの人の経歴、あるいは高校範囲の勉強……などなど。重要なのは、その体験で得た契機を引き受けて、自分の志望の形成に半ば強引に使ってしまうことだと思います。(ここは結構意図的にやる必要があります。)もしそこで違和感が生じれば、その違和感を契機に別の関心を探すことができます。ぜひ、一期一会的な体験を手がかりに学びたいものを見つけてください。そのためにオープンキャンパスに出たり人に話を聞いたりするのも非常に重要です。皆さんが自分に合った学術的関心を運良く見つけられることを心より願っております。